墓誌めぐりでクラクラ
散歩の途中、「墓誌めぐり」という遊びをやることがある。
これには家族も誰も付き合ってくれないし、またひとりでしみじみやるのが相応しい。
墓地を歩くと、立派な墓誌を新たに建立し直したお墓が多いのに気づく。
戒名、亡くなった年月日、名前、享年が刻まれている。それをひとつひとつ見て回る。
「八十七歳」「八十四歳」「九十一歳」などと並んでいるのを見ると、ははあ、なかなか長命の家系だな、と思う。
しかしもちろん長生きの人ばかりではない。昔は、特に戦中・戦前などは平均寿命もはるかに短かったはずで、若者も子どももよく死んだ。
「二十歳」「十六歳」「十二歳」「七歳」なんて人もたくさんいる。「二十五歳」「三十二歳」だって死ぬには若すぎる。痛ましい。それぞれの亡くなった事情は分からないが。
親は泣いただろうな。どんな子だったんだろうか。
「一歳」「三歳」などは「童子」「童女」という戒名だ。生まれたばかりですぐ死んだ子、生きて生まれなかった水子の名前が刻んであることもある。
親は泣いただろうな、と重ねて思うが、その親もとっくにこの世の人ではない。
夥しい数の死者。夥しい数の名前。夥しい数の、それぞれの人生。
だんだんと頭がクラクラしてくる。
50歳を超えた自分が、いまここにこうして生きているのが奇跡のように思えて、いよいよクラクラし、足元はフラフラする。うーむ、とただ唸るしかない。
「墓誌めぐり」とはこんな遊びです。
ここまで書いていて、このクラクラ感は別の場所でも味わったことを思い出した。しかももっとスケールのでかいクラクラ感だ。
上野の国立博物館の東洋館にミイラが展示してある。
紀元前十世紀だか十何世紀だかの人間の遺体だ。
この遺体とじっと見つめ合う。向こうはもちろん目は見えないが。
この人が生きていた時代から、この現代の日本の上野で、なにかの縁があって自分とめぐり会うまでの何千年のあいだに、いったい世界では何百億人、何千億人の人が生まれ、生きて、死んでいったのであろうか。
夥しい数の、それぞれの人生。運命。苦しみ。悲しみ。あるいは喜び。
うーむ、クラクラする。人類史的なクラクラ感だ。
どうです、あなたもクラクラしてみませんか?
まずはお近くの墓地まで。
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コメント
こんばんは!そして初めまして!でもないのですが・・・
私、管理人さんがとても、いい方である事を知っているものです(^^ゞ
『墓誌めぐり』。。。なんとなく解ります。ウチも代々本家できたので沢山の戒名があります。ただよそ様のお墓に興味が入っても、なかなか墓誌にまで目は、行きませんでした。楽しそうですね!
あのぅ・・男の方が一人で墓地にずっといると怪しまれませんか?。。。
投稿: 桜子 | 2006年7月 3日 (月) 21時54分
墓誌めぐり
全く同じことを今日やってました。
過ぎ去った誰かの人生。
縁もゆかりもない誰か。
でも、墓誌は読む人に訴えるものがあります。
この人は確かに生きていたんだと。
生きるってなんなんでしょうね。
ついつい、生の対極に死があるように思いがちですが。
お彼岸のまどろみはとりとめもなく消えて行きます。
残るのは石に刻まれた文字のみ。
投稿: けんすけ | 2011年9月23日 (金) 23時08分
いや、また。
こんな古い記事にコメントいただきまして、まことにありがとうございます。
桐生SNS「ほぼ失業カラサワ」のブログも、よろしかったらご覧ください。

投稿: ほぼ失業カラサワ | 2011年9月24日 (土) 09時56分