「八日目の蝉」と「コクリコ坂から」
「八日目の蝉」、角田光代の原作小説(中公文庫)を結局、読んでしまった。
http://www.chuko.co.jp/bunko/2011/01/205425.html
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20110613-OYT8T00602.htm
映画を観て、NHKのドラマを観て、小説を読んで。
念入りだ。
映画の主演は永作博美、井上真央。
いい。
女優がいい。
小池栄子もいい。
子役がいい。
映画のサイト
↓
http://www.youkame.com/index.html
NHKのドラマの主演は檀れい、北乃きい。
これは、檀れいが好きか嫌いかで評価が分かれちゃうかな。
ああいう宝塚的な派手な美貌で、小豆島に身を潜めて隠れていられるとはとても思えない。
(それを言っちゃあ芸能なんて成り立たないけれども)
だから逆に、男からちょっかい出される話が妙に生きてくる。
NHKドラマのサイト
↓
http://www.nhk.or.jp/drama/semi/
で。
映画とNHKドラマとどっちがいい、といわれれば。
映画です。
女優がいい。子役がいい。
映像づくりが丁寧。小豆島が美しい。
特に子役の問題。
母子ものなので、ある程度以上、子役で泣かせる話なのに、
NHKドラマのほうは子役の演技の演出まで手が回っていない感じ。
さて次は。
スタジオジブリの新作「コクリコ坂から」の話です。
角川書店のキャンペーンに乗せられて、
原作になった少女マンガ(高橋千鶴、佐山哲郎)と映画の脚本(宮崎駿、丹羽圭子)、
両方とも読んでしまった。
いずれも角川文庫版で、セットのようにして売っているんだもの。
http://www.kadokawa.co.jp/sp/201105-07/
原作の少女マンガは1980年に雑誌「なかよし」に連載された300ページほどの作品。
1970年代を舞台に、高校生の純愛、出生の秘密、高校の制服自由化をめぐる学園紛争などが描かれている。
まあ、マンガ作品としては成功しているとは言えない。
少女マンガらしい失敗作である。
巨匠・宮崎駿自身が「不発に終った作品である」と断じている。
巨匠はさらに、
「結果的に失敗作に終った最大の理由は、少女マンガが構造的に社会や風景、時間と空間を築かずに、心象風景の描写に終始するからである」
というのである。
それなら、巨匠は何故そんな少女マンガを下敷きに新作の企画を立てたのであろうか。
そこが凡人には分からないところだ。
ホントに分からない。
巨匠は、少女マンガの失敗作をバリバリ書き直し、新しいアイデアをガンガン注ぎ込み、人物や時代の設定も変えた。
すると、あ~ら不思議。
あの、さして面白くもなかった少女マンガのお話が、見事な映画脚本になったのである。
マンガと脚本を読み比べてみると、ちょっと驚きますよ。
巨匠の仕事の跡、仕事の仕方というのが少しは分かるような気がする、貴重な体験でした。
大幅に変わりましたが、一例として時代設定のことだけいうと、
少女マンガは、大学での学園闘争の影響が高校にまで及んだ1970年代。
映画脚本は、1963年(昭和38年)、東京オリンピック前年の横浜。主人公の高校生たちは団塊の世代。太平洋戦争、朝鮮戦争の影を引きずっています。
ところが、だ。
映画「コクリコ坂から」はこれから公開される。
当然、まだ観ていない。
でも脚本を読んでしまうとね、
このシーンはこういう動画になるだろう、
この建物はこのアングルから描くだろう、
この人物はここでこう動くだろう、
このセリフはこんなタイミングで、
二人がコロッケを食べる夕暮れはこんな感じだろう、
週刊カルチェラタンのガリ版の文字はこんなだろう、
高校の理事長の体格と服装はこんな感じだろう、
タグボートと巨大貨物船の大きさの違いはこんなだろう、
海を描いた百号の絵の色はこんなだろう、
と、
まるで映画をまるまる一本観たように想像してしまうわけです。
映画の監督は、巨匠の息子、宮崎吾朗。
期待半分、怖さ半分。
ワタシ、こうなったら映画も必ず観ますけれども、
「おいおいゴローちゃん、ここのシーンはそういう絵じゃないだろう!」
「オマエ、オヤジの書いた脚本がちゃんと読めてるのか!」
とか言ってしまいそう。
以上みてきたように、最近の自分の読書傾向というのは、
完全にメディアに踊らされてますね。
いかんな、とか言いながら、面白ければいいや、まあ。
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